「自分のつくる水族館でとびっきりの非現実を」岐阜のうなぎ男子、酒井啓成の描く水族館はこんなにどでけえ。(筑波大学3年)
「自分のつくる水族館でとびっきりの非現実を届けたい、海の中はこんなにも雄大なんだって」。そう語るのは筑波大、生物資源学類3年の酒井啓成さんだ。小学生から飼い始めたうなぎ、そして高校時代に訪れた宮城県のマリンピア松島水族館との出会いがきっかけで、魚や水族館に対して特別な想いを抱くようになる。大学2年次にはタイの名門カセサート大学に留学、水産学部教授のもとで研究を手伝う。翌年3月には、世界一と名高いポルトガル、リスボン水族館へ自ら足を運び、夏には西日本を回りながら、20箇所の水族館を巡った。
■あの日、うなぎがやってきて
「もう10年来の親友よ。名前はないけどね」小学5年生のときに突然、友人からもらったうなぎを、酒井さんは今でも大切に育てている。愛着が増すにつれ、うなぎを取りまく問題にも目がいくようになったという。
「なじみのある魚だけど、2011年まで産卵場が解明されていなかった。まだまだわからない生態も多くて、今でも完全養殖(ひとの手で産ませて、育て、また産ませる)は進んでないんだ」。
現在行われている養殖は、シラスウナギ(うなぎの稚魚)を川で捕ってきて、それを養殖池で育てるという方法で、繁殖がサイクルになく、持続的ではないと酒井さんは続ける。
ニホンウナギは個体数が減少し、2013年には絶滅危惧種に指定された。また、2019年のニホンウナギの国内漁獲量は過去最低だった。
うなぎに対する愛はもちろんだが、それを食する日本の文化も大好きだという酒井さん。「家でじいちゃんとうなぎを食う、みたいな習慣をぼくらの世代で終わらせたくない」と想いを募らせる。
■ほんとうに魚を見る場所?
「魚」が好きから「水族館」が好きになるまでは時間はかからなかった。きっかけは高校時代に訪れた、閉館寸前だった宮城県松島町の水族館 “マリンピア松島” との出会いだ。
「閉館直前のマリンピア松島の展示は、ほかの水族館とはちがった。魚だけではなく、水族館の沿革や飼育員の方々の想い、地域の人からの“ありがとう”の声が一面に展示されていた。そのまるごとに魅せられた」と酒井さんは当時を振り返る。
日本で2番目に歴史のある水族館でもあったマリンピア松島。老朽化に加え、東日本大震災の被害や、その後の移転が断念されたことで、2015年5月、その歴史に幕を下ろした。
「それまでは魚を見せる場所だと思っていた水族館。けど水族館そのものを見せる場所なんだと気づかされたよ」。(酒井さん)
■心のそこのマイペンライ
2017年に筑波大、生物資源学類に進学した酒井さん。大学2年次には、親友のうなぎにいっとき涙の別れを告げ、もう一人の親友、トモノリことヤハタ君とタイの名門カセサート大学に半年間留学へ。
「タイに行く前、ぼくはなにか大きいことがしたいとか、困っている人に社会貢献したいとか、そんなことを考えていた」。(酒井さん)
しかし、酒井さんがタイで出会った多くの人たちは、将来や社会的な価値に縛られず、1日1日を全力で楽しんでいたという。
「その様子がとても幸せそうで、日本とのちがいを感じたよ。今まで、人の役に立つとは、社会貢献とは、といったことで漠然と悩んでいたのが、一気に吹っ切れて、好きなことで、誰かの心に新しい価値観を届けたいと思うようになった」と酒井さんは話す。
そして、これを考えたときに頭の中から出てきたのが、だれも見たことのない世界一の水族館をつくることだったという。
■現世界一はポルトガル?
「今の世界一の水族館を見にいきたい」。タイから帰国した酒井さんは、その3ヶ月後、ポルトガル首都リスボンの、世界一と名高い水族館に足を運んだ。
“リスボン水族館” である。
「面積とか、飼育数とか、収益が1位とかではない。レビュー(満足度)が世界一。しかも、観光客だけではなく、水族館マニアや専門家からも圧倒的に高い評価を得ているんだ」と力のこもる酒井さん。
アイデアノートを手に、片っぱしからその魅力を書き留めたという。
「すべての水槽に、テーマとメッセージ性が宿っていた。自然そのものを再現していて、まさにその中に放り込まれたような空間だった」。(酒井さん)
たとえば、ぐるりとうねる螺旋階段の真ん中には、巨大な水槽。2階から1階へと降りていくことで、表層付近の魚の目線、下から見上げる魚の目線、両方を体感できる。奥ゆきも、水深もふかい。日光が上から差し込み、深層にはこんなにも光が届かないのかと、来館者が気づくことができるようなつくりだ。
日本では横から見ることが多い、ラッコの展示。リスボン水族館では、上から見ることで、無意識にラッコがどれだけ潜っていられるのか、肌で感じることができる。
自然をそのまま切りとってきたような、水槽の数々。ペンギンとともに魚が泳ぎ、空には鳥が飛ぶ。魚の大群に混じり、サメやエイが優雅に泳ぎまわり、そこには、まさに食物連鎖が存在する。
そして、中でも酒井さんの心を動かしたのは、館内展示の最後に映し出される1本のビデオだ。20分ほどのビデオに、来館者たちは釘付けになるという。
「みんな、ここはなにかがちがうって。そう感じているから立ちどまる。リスボン水族館の歴史や想い、教育や保全活動の紹介がつぎつぎに流れていく」。
そしてビデオの最後には ”Stop and Listen. Nature is a great teacher.“ (ちょっと立ちどまって、自然の声に耳を傾けなさい)の言葉。これは今の酒井さんの座右の銘になっているという。
「水族館を最後までまわって、ビデオを見たあとは涙が出るかと思った。はるばる一人でここまできて。自然はこんなにも雄大で、ぼくらは、自然という恩恵に、海という存在に生かされているんだって感じた」と酒井さん。
また、自分なりに良い水族館とはなにかということを整理できるようになったという。
「一人一人の、もっていた自然への価値観をすこしでも変えることができる。そんな水族館が、いい水族館なんだ。自然は守るべきとか、そういうことじゃなくて、そもそもぼくらも生態系の一部であって。そういうことをみんなが当たり前に考えるようになればいい。その役割を担うのが水族館なのかな」。(酒井さん)
ポルトガルから帰国後、酒井さんは日本で水族館を巡ることに没頭。大学3年次の夏には西日本を回りながら、20箇所の水族館を訪れた。
「まずは、こいつと水族館に行くとおもしろいって思われる人間になりたい。すべての日本の水族館を巡りたい。勘を鋭くしたいんだ。この水族館はここに力を入れているのか、この水槽1つからなにを伝えようとしているのかって考えながら。あとは再現する自然を明確にしたいから世界中のいろんな海に潜りたい」と酒井さんは、未来について想いを語る。
「いつか、自分のつくる水族館でとびっきりの非現実を届けたい。訪れた人には、感じてほしい。生態系はこんなにもキラキラしているんだって。海はこんなにも壮大で、多様で、対等なんだって」。
おわり
■おわりに
ごぶさたしています、筆者サイトウです。
今回は、学部の友人、酒井啓成にインタビューをさせていただきました。
彼とは、タイであったり、マレーシアであったり、またタイであったりと少々せわしなくも、たくさんお世話になっています。
そんな彼の、こっちまでワクワクしてくるような水族館と海の話を改めて、聞くことができて素直にうれしいです。
ひとつ遺憾だとすれば、これ酒井啓成2019年バージョンなんですよね。
またやってしまいました。
取材したの、2019年7月21日なんです。
湿った空気が入りこみ、西日本中心に雨が降った、そう、あの日です。
書いている、今日は、2020年5月2日。
あかん、あかん、日数にして、二百と飛んで八十六日も経ちました。
なつかしいですね。その間、色々ありました。
ラグビーW杯では日本代表の大躍進に心を踊らせ
タオルを振って応援した巨人、不動の捕手、阿部慎之助選手の引退があり
消費税はいつの間にか、あらま10%になっていて
そうだ、外国語映画としては史上初、韓国の「パラサイト」がアカデミー賞を受賞しましたね。ああ、観たいなあ。
それにしても、最近も本当に変化の激しい日々が続きますね。
はい、なんの話かって。
ときを戻しましょう。
ということで、今回読んでもらった啓成のお話は、今では、また、だいぶ進んでいるのです。
申し訳ない...。
さらに成長した彼のことは、彼にきくのが一番ですね。
実はすでに、とある水族館の館長になったそうだと、潮風のうわさを松美池のカモたちから聞きました。
ここから先の冒険はまたいつか。
最後に彼の、ウェブページとアカウントをそっと置いておきます。
お手すきの方はちょっくらのぞいてみると、発見があったりするかもです。
酒井さんTwitter:鶏 (@serinunbard) | Twitter
ご精読ありがとうございました。
健康にお気をつけて、またどこかで会いましょう。
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取材・文:齊藤滉平(筑波大生物資源学類3年)
写真(酒井さんから借用)
「僕はゲイをカミングアウトして、人生がガラッと変わりました」 コーチングのプロ、平山裕三さんが学生キャリア支援にかかわり続ける理由。
平山裕三さん(34)は大学3年生のときにゲイであることをカミングアウトした。「当時泣きながら伝えて初めて、自分がゲイであることに悩んでいたと気づきました」。平山さんはその告白の場にもなった「株式会社はぐくむ(https://hagukumu.co.jp/)」で現在、社員としてはたらく。はぐくむでは学生のキャリア支援にも携わり、年間500人以上の学生にコーチングをする平山さん。13年もの間、学生ひとりひとりに真摯に向き合ってきた中で、学生の顔つきが変わり、「こう生きたい」と強く歩みはじめる瞬間について語ってくれた。
■泣いて、伝えたカミングアウト
平山さんがゲイであることを告白したのは、大学3年生のとき。株式会社はぐくむの運営するライフデザインスクール(LDS)でのことだ。当時平山さんは、はぐくむでインターン生として関わりながら、LDSにも参加していた。
はぐくむの LDSは自分と向き合いながら、実現したい未来を描き、形にする6ヶ月間のキャリア教育スクール。2007年から始まり、今年で13年目。平山さんはその1期生。毎週のクラスを通して、自身の価値観、思考や行動パターンを見つめ直した。「何のために生き、働くのか」を学生同士が、関わり合い、疑問を投げかけ、時にはぶつかりながら追求していく。
幼少期から恋愛の対象が同性だと自覚していた平山さん。しかし、それまでは中高の親友、数人をのぞき、家族にすら打ち明けていなかった。その心境を、はぐくむ代表の小寺毅さんと同じLDSに通っていた10数人の仲間の前で打ち明けた。
「その時は泣きじゃくっていました。泣きながら自分がゲイであることを初めて大人数の前でカミングアウトしました」。この日をきっかけに平山さんは押し殺してきた感情と向き合いはじめる。
小学生の頃から、陽気でクラスの中でも笑いの中心的存在だった平山さん。しかし、一方で恋愛の話になると、その場から立ち去ったり、濁したり、ふとした時に誰にも共有できない寂しさを感じていた。
「ゲイであることは変えられないって分かっていたから、それを不幸だって捉えちゃうと苦しくてしょうがなかったんですよね。だからむしろ良かった、くらいにずっと思い込ませていました。でも、本当は自分が何よりもゲイであることを悲観していたんだって、言って初めて気がつきました」。(平山さん)
さらけ出せない後ろめたさを抱え、インターンのミーティングでも、心ここにあらずの状態だったこともしばしば。日常生活では、前に立って目立っていた友だちに対して皮肉を言ったりすることもあった。
カミングアウト後は、それがなくなり、生きやすくなったという。はぐくむインターンの中でもリーダー的存在になり、大学卒業まで2年間インターンを続けた。
平山さんがカミングアウトに至ったのは、LDS最後のクラスでのことだった。最後にカミングアウトできたのは、同期のLDS生が心のうちをさらけ出し、生きたい人生に向けて歩む姿に、うらやましい気持ちがあったからだという。
■カミングアウトした自分だから
大学卒業後は、ソフトバンクに入社。3年間法人営業を担当し、2011年から社員として、はぐくむではたらく。
卒業後、はぐくむに就職しなかったのはすぐに貢献できる自信がなかったことと、親からの反対が理由。ソフトバンク時代には営業で東京エリア1位の成績を収め、またソフトバンク社長、孫正義氏の後継者を育てるソフトバンクアカデミアの1期生にも選ばれた。
ソフトバンク時代も、平山さんにははぐくむに戻るという強い決意があった。「人と直接関わりながら、その人の本質を引き出したい。僕がカミングアウト後に生き方が変わったように、自分の人生を、自分の足で生きるよろこびを伝えたかったんです」と平山さんは今の仕事に対する熱意を語る。
■心が震える
「学生たちが、心からの願いに気づいて、それを言葉にしたときのパワフルさ。その瞬間はいつも心が震えます」(平山さん)。
平山さんは13年間(うちインターン2年間)、学生たちとLDSを通して向き合ってきた。過去の経験から生まれる不安や恐れ。そこから、心が傷つくのを避け、自ら可能性に蓋をし、向き合うのをやめていく。そんな学生も多い。
「恐れていたものが外れて、こう生きていきたいと願いを言葉にした学生たちは、その前後で驚くほど顔つきが変わるんです」。本音をいうと全ての学生にLDS に参加してほしいと平山さんは続ける。
「当たり前ですけど、価値があると自信持って言えないプログラムは出せないです笑。もちろん働くことを通して社会を変えたい、誰かの役に立ちたい学生には特に勧めたいです。けれど、やっぱり世の中全体に届くといいなと思って仕事をしています」。
最後に学生へのメッセージを平山さんは答えてくれた。
「大学時代は自分から動くことが大切だと思います。何をするにしても、待ちの姿勢では機会はやってきません。僕自身、LDSという機会に自ら飛び込んで、あの時自分をオープンにする決断をしていなかったら今の僕はいません。自ら成長する機会に飛び込むこと。機会に対しオープンに生きる決断をすること。それを大事にしてほしいなって思います」。
■おわりに
ご無沙汰しています、筆者サイトウです。
だいぶ間が空きました。
実はこのインタビューしたの夏なんです。
もう金木犀も散りました。申し訳ないです。
今回は、平山裕三さんにインタビューさせていただきました。
僕らは普段、"ぐっちさん"という愛称で呼ばせてもらってます。
なので以下ぐっちさんでいきます。
語ったら尽きないのですが、僕自身LDSの17期生としてぐっちさんに大変お世話になりました。
悩んでいたり、見栄を張っていたりするとすぐに見透かされ、
すごく優しく、それでいて直球に、背中を押してくれるぐっちさんに何度も助けられました。
ぐっちさんの人柄やLDSという空間。
今回はそんなことについて書く機会をもらってとても嬉しいです。
ですが、僕の文章ではまだまだ伝わらないことがたくさんあると思います。もし何か聞きたいことがありましたら、筆者サイトウまで何でも聞いてください。
最後にライフデザインスクール(LDS)のリンクを載せておくので、興味のある方はご覧ください。
http://www.hagukumu.co.jp/lds/index.html ライフデザインスクール(LDS)
取材・文:齊藤滉平(筑波大学生物資源学類3年)
写真: 平山さんから借用
-ロケット打ち上げを夢見た少年が教育哲学の道へ。- 自身と対話し続けた「小さな哲学者」の決断(筑波大学教育学類4年 砂川宥人)
今まで突っ走ってきた価値観・職業観。
それを変えることには相当の思考と勇気が伴う。
「人に貢献することを第一に生きるか。」
「自分のやりたいことを第一に生きるか。」
「はたまた中間か。」
正解のない問いを前に私たちはどのように向き合い、決断していくのか。
今回は、宇宙に思いを馳せていた一人の少年が、アメリカ留学をきっかけに生き方を変え、”人間まるごと”を勉強するため筑波大学に入り、その後も目まぐるしく変わる価値観と向き合い続け選んだ道のお話。
■宇宙に夢中だった少年時代、アメリカ留学での転機
---「ロケットを飛ばしたかった。自由研究で皆既月食の赤い月に魅せられ、小中と宇宙や星について勉強し、高校では理系に進んだ。大学では宇宙工学を学び、JAXA等に就職するつもりだった。"宇宙"という存在と関わることがライフワークだと思っていた。自分がやりたかった。ただただ欲求に従っていた。」
当時、小惑星探査機はやぶさがミッションを終えて小惑星イトカワから帰還。また民間ロケットの打ち上げを描いた小説「下町ロケット」が発行された。
これらに強く影響を受けた宥人の「ロケット打ち上げ」「新星発見」への想いは高校進学とともにさらに確固たるものとなっていった。
宥人に転機が訪れたのは高校2年。
太平洋を越えた異国で、二つのことが宥人の考え、そして人生を大きく動かす。
①人間がちがう
---「そこは人間がちがった。何もかも。
性格が、考え方が、ライフスタイルそのものが。
"何でこんなにゆっくり生きているの?"
"何でこんなにバスの運転手さんは陽気なの?"
"何でみんなアメリカ人なのに見た目も考え方もちがうの?"
"何で銃声が聞こえるの?"
よくも悪くもそこは人間がちがった、生きている世界が違った。」
アメリカで感じたこれらをきっかけに、彼の興味は人間のちがい・形成を知ることに向いていく。
---「国が違うだけでこんなにも、同じ国の中でさえこんなにも色んな人がいる。
人間っていったい何なんだ。」
②ESL(英語)の先生との出会い
---「愛が伝わってきた。言葉・文化・人種を越えたところで、
その先生から、愛だけが伝わってきた。」
彼を変えたもう一つの出会い。
それは英語がまだ拙かった宥人たちアジア人にも、アメリカ人にも、中東の人にも隔てなく人間として真っ正面から接する先生であった。
---「人に何を与えられるかを第一に考える先生だった。生徒一人一人に向き合い、"今ここ"の生徒の人生に関わる。まさにその瞬間、生徒の人生が動き出すような、人間まるごとを受け止める先生だった。」
以下はその先生が、宥人に放ったことばである。
人生には必ず犠牲がある。どんな生き方を選ぼうと必ず困難を強いられる。それでも人生において、幸せというものを定義するとしたら、それは困難を乗り越えた先にある他者の喜びではないか。あなたは何のために困難に立ち向かうのか。
このときをきっかけに彼の価値観は大きく変容する。
---「好きで好きで、飛ばしたかったロケット。
けどその先に、夢をかなえた先に何がある?
仕事というのは必ずしも自分の為だけに追求するものではない。
ESLの先生のように
僕は人間に、その人生に目の前で関わり、喜びを与えたい。溢れ出る人間への興味(①)、そして人に内面から関わり、その人生を動かし彩を与えたい(②)。」
自分の好きを追う道から、人に与えた先の幸せを追う道へ。
こうして彼は、ロケットに対する想いを捨て、文転。
人間と教育について学ぶため、筑波大学人間学群教育学類に進学する。
■ 砂川宥人のいま。-教育研究者の道かスウェーデン進学か-
筑波大学に進学し、現在4年生となった宥人。
大学4年間を歩む中で、宥人の価値観はさらに柔軟に深く変わっていった。
いま、彼の目の前に広がる道は大きく二つに分かれる。
「教育研究者」と「スウェーデン進学」である。
いまからみなさんには、小さな哲学者の苦悩とワクワクにふれてほしい。
狭き門「教育研究者」への道
人間を知りたい、教育を知りたい。
筑波大学にて勉学に励む中、選んだ分野は「教育哲学」。
それは良い教師になる方法を学ぶのではない。
「教育とは何か?」
「教育を受けることは何の意味があるのか?」
How toではなくWhatを掘っていく学問分野である。
研究テーマは、
「福祉国家の基盤価値である社会的連帯のあり方」
---「"国家=単一民族" の時代は終わった。
グローバル化が進み、様々な背景を持つ人が集まる中、果たしてわたしたちは、どのような"社会的連帯"を築いていくことができるだろうか。
移民の方、障害を持っている方、失業をした方、社会の中で支援が必要な方。
全ての人が、人種、民族、宗教にかかわらず生を保証され、"見棄てられない"社会。
そしてその社会を担っていく"市民"とはどのような存在かを追求したい。
"社会的連帯"も、それを通した他者への貢献も必要だし、その先に人間社会としての幸せがある。」
宥人はそう語る。
今の研究が直結するキャリアは研究者の道。
ただしその道は現実的に狭き門であり、博士号まで進んだとしても教授になれるのはわずか。
社会へ出るのは27~28歳前後。
現実に目を向けたとき、宥人はもう一度職業観を振り返る。-
--「人間形成に対する、そして"ちがう"が"ちがう"として共生する社会への探究心。
それを生かせる選択肢の一つは、たしかに研究者である。
けれど、頂上に登る道は決して一つではない。
他にも、自身の探究心や強みが生きる場所があるはず。」
ここでもう一つの選択肢、「スウェーデン進学」への想いが芽生える。
自身が"ちがう"へ、「スウェーデン進学」への道
宥人にとって、スウェーデン進学は研究者の道に進むことと全くちがう位置付けである。
---「研究者以外のキャリアを考えた時、浮かんだのは国際交流を仕事にすること。人間の"ちがう"の共生への探究。
自身が熱意を注いできた研究。
筑波大学で留学生と関わり続けた経験。
好きな英語や発信活動。それを生かして仕事がしたい。
未曾有に架け橋をかける存在になりたい。
具体的には、国際交流基金や外務省、Japan Times。
国際的に"ちがう"を知って、"ちがう"を発信したい。
そのためにまずは自身が異国の地で、"ちがう"存在になりたい。
だからこそ海外進学の道に惹かれている。
また、自分の理想に近い「社会的連帯」を形成しているスウェーデンで学問を追求したい。」
自分でも驚くくらい職業観が変わっていると宥人は続ける。
---「ロケットに夢中だった少年時代。
自分の好きだけを追うのが幸せだった。
けど、アメリカでの出会いをきっかけに、人の人生に内面から関わり、人の生き方に直接貢献することが幸せだという価値観に変わった。
さらに教育哲学を研究し、今は
必ずしも人を直接変える、動かすことだけが幸せの形ではないという考えに至った。
研究者や国際交流、どの道を決断しようとも自分のしたことが
まわりまわって、世の中を1ミリでも幸せにできるならこんなに嬉しいことはない。」
---「将来、また価値観は変わっていくと思う。
そのときそのときの決断がどう未来につながるかなんかわからない。
けどその決断のドット(点)はあとで振り返ったら繋ぐことができるから。
これからも"今ここ"に素直に決断して生きたい。」
■ おわりに
どうも筆者サイトウです。
本日、紹介したのは宥人のほんの一部の価値観に過ぎません。
記事に書けなかったことが山ほどあるのでキャンパス内で彼にお会いしたら聞いてみてください。
彼ほどピュアな熱意に向き合う人になかなか出会うことはないと思います。
今回、強く感じたのは、一人の人間の中においても多様な価値観、"ちがい"が存在し、それは時間軸の中で刻々と変化していくということ。
他者貢献か自己実現か。
研究者か就職か。
好きな道か、得意な道か。
人生における岐路には、やはり正解などないのだと思います。
それでも、そのときそのとき自分が責任を持って決断したこと(点)は、あとあと振り返ると、人には真似できない、あなた自身の軌跡を描くのではないのでしょうか。
最後まで読んで頂いた方、本当にありがとうございました。
感じたこと等ありましたら、いつでもコメントだったり、話しかけてくれたら嬉しい限りです。
それでは、また。
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取材・文:齊藤滉平(筑波大学生物資源学類3年)
写真:宥人から借用、齊藤滉平
トライアスロン初心者が3か月でアイアンマンマレーシア完走を目指す! 体験記最終④ ランニングパート
トライアスロン初心者が3か月でアイアンマンマレーシア完走を目指す! 体験記③ バイクパート
③バイクパート
スイムを終え、よちよち走ってT1トランジションに着く。
自分の番号のバイクギア袋をと取って、更衣室に入り、海パンを脱いでバイクウェアとランニングシューズを履く。
そうなのだ。
残念ながら3ヶ月という期間の中で、バイクシューズを履いてペダリングの練習をすることが出来ずに、
本番もランカウイのバイクパートはくねくねしていて危ないから絶対やめなという、心あったかい松井さんという女性の方のアドバイスにより、
今回はランと同じのランニングシューズで挑む。ヘルメットをつけ、いざバイクパートへ。
ここでちょっと後悔したのが、バイクギア袋の中に軽く補給食を入れておけばよかったということ。
バイクに貼り付けてある補給食はやはりバイクパート中に食べたいので、ここのT1で口にするものをバイクギアの袋に入れておくといいと思う。
バイクを取り、バイクスタート地点へ向かう。
沿道に並んだ友人たちとハイタッチをしながら飛び乗る、さあいざいかんと、、、したら笛を吹かれる。
ああそうだ。まだだった。
ちゃんとスタートのラインまで手押しで進み、気を取り直してもう一度。
母にも手を振りいよいよ180kmのバイクランカウイへ。
僕が今回のIRONMAN MALAYSIAで一番懸念していたバイクパート。
なんせ一番自分でコントロールできない不確定要素が多すぎる。
特に怖かったのはバイクの故障。
この3ヶ月4本も壊れたスポーク。
前日のメカニックの人たちの反応を見る限り、スポークを治す道具はあまりないようだったので、すこし心配。
けれど藍子のお父さんからいただいたタイヤを信じて、漕ぎ進める。
また、パンクも修理キッドは持っているが、修理の仕方をあまり習得していなかったので、そこにも注意を払う。
バイクパート中おそらく全神経の40%は路上を注意深く観察することに使って走った。
ランカウイのバイクパートは道があまり良くない。
マレーシアなので覚悟の上だが、ガタガタする道が多く、出来るだけひび割れた箇所を避けつつ進む。
また歩道も整備されておらず、コンクリートの端までいくと、突然窪みがあったりする。左側走行なのだが、寄り過ぎるのはおすすめしない。
窪みにはまったら間違いなく落車してかなりの怪我をする。
バイクパート前半、雨が降る。
そしてどんどん強くなる。
最悪だと思ったのだが、今思うと午前中の日差しを避けられたという意味では幸運だったのかもしれない。
スリップしたら大ダメージを受ける恐れがあるので、下りでもスピードを40km以下に抑える。くねくねした道が多く、また車もトラックも通るので徹底して注意を払いつつ、走る。
速度は25km以下には落とさずようにしたが、あまり気にせずに抑えて走る。
1周目の30km、2周目の120km地点では山道。
これはラップ最初の山道だと思う。
ビックサンダーマウンテンのような岩岩(作り物)のトンネルを抜けて、山を登っていく。
180km通して意識したことだが、登りは頑張らない。
ギアを限界まで落とし、補給食を取りつつコツコツ上がる。
そして下りで一気にギアを上げ、駆け下りる。
これを繰り返した。(ちなみにこれは僕らのツアーに同行してくださったメカニックの岡村さんからのアドバイス)結果的に、バイクでも思ったより後半にかけてぐいぐい他の選手を追い抜くことができたので作戦功を奏したのかもしれない。
45kmを超えた時点では、雨も降り上がっていたから、下りは50kmほどで駆け下りる。
あくまで力は抜いて、いつでもブレーキを掛けられるように突き進む。
ランカウイは登りも多い分、下りがたくさんあるので特に気持ちがいい。
エイドには全て寄ることを決めていたので、バイクパートでは15km間隔に1つあるエイドステーション。1周で6個、つまり12個のエイドステーションに寄れる。
バイクパートの各エイドステーションには、
○トイレ
○水
○スポドリ
○バナナ、ジェル
○スポドリ
○水
○トイレ
○メディカル
のような順でテントがあり、本当にありがたい。
バイク故障の次に恐れていたエネルギー不足。なんたって練習でバイク180kmなど経験したこともないから未知の領域だ。
特に2週目の半分くらいまでは各エイドステーションに立ち寄り、バイクを止めて、丁寧にエイドを受け取り、バナナを食べ、受け取ったスポドリに持参のジェルを溶かし、また出発。
それを繰り返す。
1周目の60km地点あたりでランカウイ島南東のクアの街に出る。
平坦な道が続き走りやすい。
クアの大通りを進んでいくと、「2nd rap 150km」の看板が。次にここに来た時には残り<strong>30km</strong>なのかと、念頭に置き、再び大通りを走る。
何個か信号を渡り、最終的に大通りから右に曲がり、再び田舎道に戻る。
ここだ。ちょうど賑わった街並みを過ぎ、大通りを曲がった先から、ランカウイ一番の難所の坂が続く。
イメージとしては2~3個きつい登り坂が下りを挟んで続く。
1つ目の坂。
沿道に日本人の応援がいらっしゃってここで歩くわけには行かんと何とか越えていく。
なかなかきつい、筑波でのトレーニング中にすこし痛めた左膝に響く。
けどいける。
ただこの坂を終えたところで左側の前ギアの故障に気づく。
左側ギアなしで次の坂を登ると足を痛める可能性があるので次の坂は手押しで進み、下り坂を全力で駆け下りる。
バイクメカニックはいるにはいるのだが、バイクで走行していることが多く、あまり出会えないし、気にしていないと通り過ぎていってしまう。
ただメカニックがいるエイドステーションもあるので、何か問題が発生した時には聞いて見るといいと思う。
難所を超えてからバイクスタート地点付近までは走りやすい平坦な道が続く。
なんとか90kmの看板を見つけ、ようやく半分。
さて、バイクパート2周目。
2周目前半のエイドステーションでメカニックを見つける。
おお、前日壊れたスポークを直してくれたおじさんではないか。
再びの出会いにタリマカシ(マレー語でありがとう)をして、左ギアを直してもらう。
再びビックサンダーマウンテンを一超えし、ランカウイ島の東側へと向かう。
ビックサンダーマウンテンを越えたところで「2ndrap 120km」の看板。
おお、ついに2/3来たか。
あと1/3だ。
テンションが上がり、時刻を確認。この時点で<strong>バイクスタートから目測5時間ほど経過。バイク自己予測タイムが7時間半から8時間だったので、今のところ60kmを2時間半ペース。
ということは180kmで7時間半。いい感じに走れてる。
それに疲れはあるが、既に2/3を終えているのでペースは落ちない。
登り坂はコツコツ9~12km/h、下りはゴオオオと42~54km/h、平坦はおそらく27~33km/hくらいのペースで走る。
ようやく島の東側を抜けクアの大通り。
再び「2ndrap 150km」の看板を確認し、信号を曲がり、最難所の連続坂道へと続く。
この時点で足は中々悲鳴を上げていた。
特に左膝が右膝の回転に頼らないと、踏み込むのに躊躇するというレベル。
それでも決めていたことがあって。
この最難所の坂3つ。
1周目では左変速ギアの故障で1つしか登らなかったパート。
この坂を自転車のペダリングで登らずして、完走した後に自分が納得いかない気がしたので、覚悟を決める。
1つ目の坂を登る。
中々応援の方がいらっしゃって励まされつつ登る。
ここまで来るとやはり歩いている選手が多いのだが、僕は1周目で歩いたのと、自分の意地があるので止まれない。
同じく坂を登っているヨーロッパ系の青年に挨拶をすると、年齢を聞かれた。「今20歳で、もうすぐ21歳になる」というと、「wow, so u same age group with me, I’m 19, 1 year younger than u」と言われる。
だいたい同じ年代の子がとなりにおったので調子に乗って坂なのに飛ばす。
「youuu tough guy」と青年が言って来たので、「youuu toooo」と返して何とか登りきり、下りへ。
こんなやりとりで意外と元気が出たりする。
そして再び登り坂。
おそらく急な登りはこれが最後。
余力は残す程度に、ただそれでいてペダリングは止めることなく登り切る。
ランカウイ島では15kmごとに距離表示の看板があるので次の165kmの看板を探す。
1周目より少し手前で左に曲がり、ちょっと違うコースに入りしばらくすると、165kmの看板が。
もうあと15km。
こんなに長かった180kmの旅の12分の11が終わって、いよいよラストパート
この時点でバイク7時間半は切れる予測があったので(腕時計がないからあまり分からない)、ラストペースを上げる。
平坦な道でもう故障のリスクもないから、ありったけの力で漕ぐ。
ランパートに入ったら、余力がまた湧いて来る気がしたので、とりあえずバイクをやりきることにして、突き進む。
足がいうことを聞かないが、みんな辛いはずだと言い聞かせ、トランジションである空港を目指す。
たぶんこの15kmのラストスパートで相当順位が上がったと思う。
見覚えのあるIMの赤いゲート、そして空港とトランジションのMIEC。
やっと見えた。
やったで。すごく肩の荷が降りる音がした。
もうここからはランニングパート。全ての要因を基本的には自分でコントロールできる。バイクを降り、ゲートをくぐり、スタッフの方にバイクを渡す。
ふう。
バイクパート完了。
180km Time 7:12:16(7時間12分16秒)
なかなかいい。
後半の追い上げが効いたみたい。
またまた余談なのだが、ランカウイのバイクパートは本当にあったかい。
応援に来てくれた人にはなかなか会えないが、島民の人たちが結構外に出てこぞって応援してくれる。(まあランもだけど)
ローカルな雰囲気と応援に触れながら走っていくのは本当に気持ちがいいし、感謝しかない。
それと子どもがはちゃめちゃにかわいい。ハイタッチを求めて来たり、ボトルのゴミを求めて来たり(ボトルのゴミをあげるのは一応禁止らしい)。
そんなこんなでモチベーションを切らさない助けになってくれた。
さあ、いよいよ。
ラスト。
42.2kmのフルマラソンのお時間。
ランニングパートへつゞく。